昔の国府津で育ち今も昔ながらのみかんを育てている

大曽根孝夫です。自宅は、JR国府津駅から15分ほどの国道1号線沿い。
お正月には箱根駅伝が家の前を駆け抜けます。国道とは反対を向くと、庭の先はすぐ海岸です。

徒歩0分で海釣りができる環境。海を背に見上げると山が迫り、
その山頂に近い所にウチのみかん畑が広がっています。

子供の頃からこんな場所で育ちましたが、実は本格的にみかん栽培に取り組み始めてからまだ15年ほど。
いつかは継ぐことになるとは思っていましたが、父が元気な頃はずっとサラリーマンをやっていました。
だから、このあたりのベテランの皆さんに比べればまだまだヒヨッコです。
それでも、国府津の町で古くからの名産品であるみかん栽培農家としての誇りをもって取り組んでいます。

かつてにぎやかだった国府津の町の記憶

公益社書店

子供の頃の国府津の町は今よりずっとにぎやかで、
映画館なんかもありました。

ここ20〜30年で1号線沿いの商店街もシャッターが下りたり
建て替えたりでずいぶん淋しくなってしまいました。
それでも、商店街には大正から昭和にかけて建てられた近代建築物が並んだ通りは往時を偲ばせます。

また、かつて国府津駅では、蒸気機関車の増結作業や電気機関車から蒸気機関車への付け替えが行われていたので大きな機関庫がありました。蒸気機関車がターンテーブルに乗って方向転換するのを、子供のころよく見た記憶があります。

日の出とともに坂を上り日暮れとともに下る

ウチでは、牛、馬、ヤギ、鶏などを飼っていました。
車を買う前は、その牛がみかんや荷物を積んで畑までの急な坂を上り下りしていたそうです。
みかん栽培は、日の出とともに坂を上り、畑と小屋で一日を過ごし、日が沈むと坂を下る生活。
また、みかん畑の中のわずかな平地を利用してちょっとした野菜も育てている家もありました。

一方、海が目の前だったので、ウチの祖父などは手漕ぎの船を出す漁師でもありました。
つまり、かつての国府津は食べものに事欠かない自給自足の豊かな生活があったのです。

変わったもの、変わらないもの、変えたくないもの

町の様子も生活も、今は大きく変わりました。
でも、みかん栽培の1日、そして1年は、昔とそう変わっていないような気もします。

軽トラで急坂を上り畑に着くと、そこで日暮れまで仕事です。
剪定、肥料遣り、除草、摘花や摘果、収穫、丘の段々畑ではどれも自動化できないので、
結局、人間の手でかつてと同じ作業を行うしかありません。

父も母も、祖父母も、こうして一つ一つ作業をしてみかんを育てていたのかと実感する毎日。
家族が、国府津という土地が育ててきたみかんの樹を守って、そして育てていかなければと思うばかりです。

おばあちゃん_photo

これからもみかんの樹とともに成長したい

古くから継いできたもの、新たに苗を植えたものなど、畑にはいろいろな樹があります。
その樹の枝を、陽当たりや風通しをよくして効率よく育てるために行うのが剪定です。
みかんの樹はたくさん実った翌年はあまり実をつけないので、その時に剪定をするものです。

ところが、今年実る樹を剪定してしまい1本まるごとだめにしてしまったことがありました。
200Kg近い収穫量の損失でしたが、なによりその樹に申し訳ないことをしたと思っています。

豊作に喜んでいると思わぬ台風襲来があったり、想像以上においしい実りがあったり、
失敗や成功を繰り返しながら、毎年少しずつ工夫をして、
みかんの樹と一緒に成長させてもらっている、そんな毎日なのです。